パウロはピシディアのアンティオキアで、二度目の説教をしました。ほとんど町中の人々が主の言葉を聞こうとして集まりました。しかし、ラビや会堂の指導者たちであるユダヤ人たちはこの群衆を見て妬み、口汚くののしりました。異邦人がユダヤ人と同等に扱われたことと共に、パウロの言葉がシナゴーグの伝統の枠をやぶり、新しい信仰共同体を生み出し、多くの改宗者たちを巻き込んで一大対抗勢力となろうとしていることが一大事だったのです。

 しかしパウロはますます大胆に語ります。ユダヤ人たちはキリスト到来以前に神の子たる身分、契約、律法、数々の約束、そして父祖たちを授けられている、最初であって唯一である神の民であったし、キリストも肉においては彼らから出たものである、それゆえにイスラエル優先という、救済史の秩序は守られていた。だが彼らはそれを拒否して、自由意志で福音のメッセージを拒絶してしまった。そして永遠の命への道を閉ざしたとパウロはいうのです。
永遠の命とは、イエスの教えた「来るべき世の命」であり、「朽ち果てることのない復活者の命」であり、神に義と認められることをも含んでいます。

 それならば私たちは異邦人の方へ向かうとパウロは断言します。これは異邦人たちを喜ばせました。神の約束の成就は自分たち異邦人にも当てはまることが明らかになったと知らされたからです。こうして主の言葉はひろまりました。

 こういうわけでユダヤ人たちは呪われているが、我々キリスト教徒は永遠の命を与えられている・・・と今も言えるでしょうか。かつてのユダヤ人のキリスト教徒迫害とは比較にならないほどの迫害を、キリスト教が他宗教の人々に与えてきた苦い歴史があります。わたしたちは本当に、使徒たちの信じたように、永遠の命を受けるに値するか否か、謙遜に自らの信仰を顧みることが必要でしょう。

                               


使徒言行録13章44〜52節
永遠の命に値するか
2002年8月18日